―神道と近代主義―

 日本人は、神道の生命観に対する、潜在意識的直観的反応によって、幾多の結果を齎した。その言論に捕らわれない自然さは、日本人の性格に大なる魅力を与え、その優雅・親切・思いやりは日本人特有の特性を成している。絶えず新しき事を学ばんとする要求や、目的貫徹の意力と結合された素朴な平明さと広量は、日本人共通の特徴である。併し、日本にはまだ中世的要素が残っている。自覚・自己表現・自己分析の不足は、現代的進歩の躍進の中にあって、精神的活動を弛緩せしめ、又臨機の問題に対する精神集中を妨げている。日本に自己表現と自覚的分析が発達しない限り、その目的と方法に於て明確さを欠く、盲目的な直接行動の中世的理想が、国民の若干を尚支配し、日本国内にも国外にも有害な結果を齎すであろう。

 万葉集の中に、山上憶良の古歌で「日の本は言霊のさきはふ國」と謂うのがある。その意味は、日本語は日本人が直観的に悟得する内面的心霊を持っていると謂うのである。之は大体正しい。併し複雑な現代生活は、此れ以上のものを言葉から要求する。日本は、その言葉が自覚的・分析的で、自己表現を促がし、又活発な心的独創性を進めるような國にならねばならない。太古人の創造人の創造的自己発展に対する欲求は、神道神話の中に明示されている。神道の了解に必要なるは、神道の根本思想の自己表現であって、その抑圧ではない。日本人の傾向が自己分析ではなかったから、神道はその内面的意義の説に甚だ寡言であった。併し、神道の傾向は開放・広量・寛容とにと向かっている。神道は進歩と自己発展の為の、新しい経験と実験とを奨励する。現代生活に於て、神道の要求が充たされる為には、自覚・自己表現・自己分析とが必要である。

 日本神学者のある者は、この真理をおぼろげに悟り、自己表現を発達させようと努めてきたが、彼等の努力は一般に効果的になり得なかった。本居宣長は、古事記の註たるその「古事記伝」の中に、この自己表現を一時的ながら試みている。彼の弟子中の俊秀平田篤胤は、其の師を継いで大胆に自己の所信を開陳し、若干の者はこの平田の例に倣った。併し、本居の弟子などで伴信友の率いた一派は、学問的な研究を続け強い自己表現を欠いていた。此の後者の方が日本文化一般の傾向であったが、これでは神道を現代にまで持続せしめ、又現代にこれを支持して行くことは出来ない。日本人は「物言わねば腹ふくるゝ」との諺を持っているが、日本人にして、もっと自己分析と自己表現とを得来らざれば、神道も又精神的に窒息させられてしまうであろう。

 日本人は、余りにも自分を卑下し、又感情を抑制し過ぎる。彼等は元来、活動的で常にキビ~として新しい活動の道を求めている。併し、自我の抑圧が社会的理想だとの謬見によって自分を抑えている。従って神道の創造的発展性の理解に於て、潜在意識的主観たるに止まり、神道がインド仏教よりも遥かに優れた精神的原理を有し、より良く現代生活に適せるものであり、又西洋文化よりも一層よく、物質的進歩と精神的理想主義とを、調和せしめるものなる事を、明確に会得しないのである。日本の今日の青年を五十年前と比較すると、彼等の大切に受け継がれた美しい伝統的武士的精神は漸時消滅し、彼等この神が如何にして貴重なるかさえ悟らぬものゝ如くである。否、彼等はこれを馬鹿ばかしきものとさえ考えるようである。

 この、歎ずべき状態に対抗する為に、彼の祖先崇拝が新衣を纏って復活せるは、少しも怪しむに足りない。内外の牧師諸君はこれを遺憾としているようであるが、私はその考えには与し得ない。……私は、祖先崇拝の第一歩は共同祖先の崇拝に在りと信ずる。併し、崇拝とは尊敬と名誉を表現する事で、神職達はこの点を力説し、これを敬礼と呼んでいる。……かくの如くして国民全体が、神々と一体に結ばれるのであり、この崇拝こそ各時代を通じて、最も貴重強力な国民的遺産だったと思う。日本人をして、あれほど剛健に忠義に又愛国足らしめたのは、日本人の此の根本的思想傾向によるものと信ずる。又、日本人は常に潜在意識的にこの如くであったのである。国民精神にしてこの原理を維持していれば、外来思想の危険に曝される事はないことを日本人はよく知っている。併し、彼等の望む所のものは旧式の祖先崇拝でなくて、明確な表現を持った近代的形式に於ける祖先崇拝である。

 この言をなしたバッチェロン博士は、五十年以上もキリスト教の日本伝道に携わった人で、又自覚的分析と自己表現とに習熟した人であるから、日本文化に於ける祖先崇拝の本義と、その日本の国民に対する偉大なる価値とを、かくも明瞭に洞察したのである。然るに日本の現代青年は、その固有文化の意義が現代語以って語られる事を要求する権利がある。現代的説明を欠いた過去の思想を受け入れよと云われたとて、彼等は承知すまい。又彼等はこれを承知してはいけない。何となれば、彼等の現代的説明に対する要求は、日本に於ける自覚的・自己表現的・分析的能力の発達を促進するに大いに役立つからである。神道は国民精神に強化さるべきものでなく、又日本精神は自覚から離されて、説明もなく、潜在意識内に閉じ込められるべき強制的原理たるべきものでもない。

 日本人が若し、神道の意味を自覚的に学ばないならば、西洋は日本人からこの偉大な精神的遺産を奪うであろう。西洋の芸術専門家が自覚的分析を通じて、浮世絵の美と生命とを発見するまでは、日本人は自分等の浮世絵を尊重しなかった。今や日本人は、過去に於て愚かにも外人に売った自分自身の宝を回収する為に、莫大の代金を払いつゝある。日本人が神道の真価を認めずんば、同じ愚を演ぜねばならないであろう。既に西洋人は、神道の精神的重要性を認め始めている。1922年米国及びカナダのミッション教育協会は、この両国の日曜学校の教科書として、ガレン・エム・フイッシャー氏の「日本の創造力」を出版している。氏は長年日本の社会事業に携わった人で、その書の中に曰く--

 『神道は日本人の天才を反映している。……その美・その神秘主義その自然及び祖先尊重の一点一劃も失われてはならない。これらは、キリスト教徒にも其の侭保存貯蔵され得るものである。日本の基督協会にせよ、或は又その他のどこの教会にせよ、迷信と狭い国家主義を捨てた、神道の正しく美しき一面を取り入れる時、それによって大いなる利益を享受する事を誰が否定しよう。』

 かくの如くして、アメリカのキリスト教日曜学校は、神道を研究し始めているのである。神道に於ける神霊的自己発展・普遍的霊性現代科学の新傾向との一般的一致が、もっと広く知らるゝに至れば、神道の理解はもっと普及し、その感化力は確実になるであろう。併しフイッシャー氏が神道を批評するのは、次の理由による。即ち神道は

 「人心の深さを測らず、又人心の欲求と闘争とに答えないからである。精巧な神社建築が人里離れた深林の中に立つ如く、神道の信仰は、現実生活の喧騒と闘争との彼方に住まうように見える。」

 神道はまだ、嘗て日本人の心の自覚的表面に達せず、又自覚的意識の疑問に解決を与えるように、解釈されてこなかったから、恰も森の中に孤立して存在するように見える。神道に於ける「狭い国家主義」は神道起源が、日本民族の起源史と古代史との説明にあると謂う事実と、且つ神道は、実在に関する直観的知識を日本民族流に表現するという事実とに起因する。併し、これは根本的的に云えば表現の問題たるに止まる。

神道にとって、根本的なものは金で日本のみならず、全世界に適用し得る方法で説明できる。神道は、その根本的精神に於て世界的に適用し得る方法で説明できる。神道はその根本精神に於て世界的になるが故に、「狭い国家主義」は神道の本質ではない。神道の生命観が、日本のみ当て嵌まると解するものは、神道を理解せざるものである。成程、今日尚神社には迷信が結び付いている。併しこれらは外国、殊に中国の影響によるもので、斯かる迷信は日本仏教にも、西洋のキリスト教にもあるのである。文明国に於けるこれ等の迷信は、必ずや教育の普及と共に、消滅するであろう。

 日本の国際主義は、又神道によって影響されつゝある。1932年横浜に於て、前内相安達謙藏氏によって、キリスト・仏陀・孔子・ソクラテス・弘法・日蓮・親鸞・聖徳太子を祭る神殿建設の業が起された。かくの如く日本の四偉人が、現代に於てキリスト教、仏教及び古代ギリシャの叡智と結合された事は、普遍的神霊に関する、神道思想も如何に日本の日本の人心を啓発している事を示すものである。

 神道は、建国以来創造的活動力を日本人に与えられてきた。然るに神社に於ては活動が発展しなかった。神社には一般に不活動的気分が漲っている。大多数の神社は、神道の理解を助ける中心地とはならなかった。神社は国民が神霊に敬意を払い、普遍的霊性に挨拶をする場所である。国民は神社に於て、自らの霊性の真義を見出さねばならない。神宮は供物や祭祀によって、神を正式に崇敬する。而し、神道を活力あるものとし、その直観的根本知識の全てを理解せしむるには、これ丈では不十分である。

 神官の中にも、人格識見と共に優れ、進歩に甚大の関心を有し、又国民に神道的感化を広めんと努める人々もある。併し、教育不足で、神道の真義を悟らず、国民精神の指導者たる資格に欠くる人々もある。彼等の俸給は、一家を支えるに足らないからして、家族に人並みの生活を営ませる爲、止む無く他の仕事をも兼営するに至る。神官は神社守以上の者たるべく、神道の生命観の理解を進める重大な責任を持たねばならない。神舞・神楽・供物・祭祀など、これ等のものは現代人の自覚的精神に十分且つ、永久的な神道的感化を与えるに足りない。

 神社はもっと、自己表現的であらねばならない。人民は神道の国民及び日本文化に対する、意義如何を訪ねるに当たりては、神社は一層理路整然としてこの要求は応じ得るものでなくてはならない。若し神道に対する現代人の関心を刺激し得る指導者が、神官の中から出ない場合は、普通人がこの事に当たらなければならない。さもなければ神道は、その国民的感化力を失うであろう。一般神官に対する教育の向上は、神道の安危に拘わる問題である。神社を中心として一層広き文化的影響力が普及されなければならない。神官は国民的個人的自己発展を促進し、且つ現代人の要求に応ずる方法で、神道の普遍的霊性観を説明し得る有能な士であるとして、日本国民から仰ぎ見られるようにならなければならない。

 日本は、未だ曾て世界的大思想上に意識的な貢献を成していない。精神文化研究所は、日本が従来外国文化より採り入れしものに対する返礼として、提供すべきこの種の貢献の材料を神道の中に見出すであろう。神道にして十分世界に説明せられんか、日本は過去に於て世界より与えられた全てのものに釣り合う返礼、否それ以上の返礼する事になろう。何となれば、一度び神道の真義が世界に瞭然たらんか、それはあらゆる文明国に於ける一切の進歩的霊性観に強き影響を及ぼし、神性をば主知主義と唯物論との墓地より救い出すであろうから。

 余談ながら、此の世に宗教と名の付くものは五萬とあり、其れはそれで歴史もあり、成熟したものも少なくはないのだが、併し乍らそれに向っている本尊が、教祖・お経・念仏・祝詞であったり、又、聖書や十字架や経典や仏像であったりして、祈りの対象が偶像崇拝に陥り、当体そのものとは言い難い有様である。と云っても過言ではない。憚り乍ら「原理・原則・法則は数々あれど究極絶対の真理は只一つ」だと愚考するものであるが、如何であろうか。

 嘗て戸松慶議先師が昭和三十五年、欧米を外遊された時、米国のマルセル、ソローキン、バートランド・ラッセルと会見後、英国に渡ってアーノルド・トインビー会い、六時間の激論に及んだと謂う。その時トインビー博士は、「日本の文化思想は、中国の亜流ではないか」と指摘した。それを戸松が否定したら、トインビーは「それではバランスとかハーモニーみたいなものか」と質問したので、即座に戸松はノーノーと遮り、そういう気分的なものではないと反論し、逆にトインビーに『地球が一日一分一秒の狂いもなく自転する、太陽を年に一回周転する。これは、キリストや仏陀が動かしているか?又、これを止められるか?』と、質問し、『日本の文化思想(神ながら)は〝天地宇宙の理法〟を人間的行為化したものである。それを体認したければ来日して、伊勢神宮や出雲大社に身体をお運びになれば分かる』と言って、後年トインビー博士が来日して、伊勢神宮にお参りした時の有名な言葉が残っている。

  『此処聖なる地に於て 私はあらゆる宗教の潜在する            

        ユニティを感ずる』…と。

(43 43' 23)

國乃礎 鹿児島県総連合会

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