幕末の志士が浅見絅斎の「靖献遺言」を読むと、誰一人として慟哭し涕泣しない者はいなかったと謂うが、特に次の一節は其の片鱗が窺える。「剣術は学んだからとて、人を斬らなくても済む。併し乍ら学門は違う、学んだからには此れを行わなければならぬ」此れこそ王陽明の「知行合一」の真髄に肉迫したものはない。近代日本歴史上、一番の大変革期・明治維新の原動力となったのが、〝陽明学〟と云われている。この項は駄文に満足することなく、日本陽明学先師の格言を以て簡潔明瞭に説くものとする。
学問教育の神様は、吉田松陰と云われているのだが、松下村塾では受講生が多い時で二十名程度、平素は数人(2~3名)で教へた期間は、たった二年足らずだったと謂う。その門下生から長州は伊藤博文、薩摩からは黒田清隆等首相を輩出し、入閣した者や、明治維新政府で活躍した立役者が数人居た。松陰が、常々門下生に説いた言葉は、「僕は忠義をするつもり、諸友は功業を為すつもり」だった。其処には陽明学の「私利私欲を去って大義に生きる」精神が込められている。
又、明治維新の先駆けとなったのが、「大塩の乱」の大塩平八郎であるが、大塩は天保の大飢饉の時、自分の書籍を処分(売却)して貧民窮民に分け与えた。彼の学塾(洗心洞)では、夏は練炭を引き、冬は障子・窓を開けっ放しにして教えた。怒りを発した時は煙管を噛んで、歯形を付けたと謂う。王陽明の有名な言葉に「一棒一条痕・一掴一掌血」と謂うのがあるのだが、この意味は一度打ち込んだら其の物に一筋の痕跡が残る位打ち込め、一度摑んだら其の物に血の手形が残る位摑め、という名言を地で行ったようなものである。
扨て茲で、「日本陽明学の祖」近江聖人こと、中江藤樹の心魂に迫らなければならない。藤樹が「陽明全集を」手にしたのは、既に三十七歳「この書に接しなかったら、自分の一生は空しいものに終わったであろう」と述べている。では、此処に教科書に載らない要点だけを、箇条書きに紹介する事にする。
教科書に載らない、藤樹書院――
- 「俗儒は、儒道の書物を読み、訓詁を覚え、記誦・詞章を専らとして、耳に聞き、口に説くばかりにて、徳を知り、道を行わざるもの也」
- 「飲食の不肖化が、人に害をなすように『博聞・多識』は情報の多き為に、学の不肖化を来している」
- 「迷へる人は、心は身の内にばかりあると思へども、根本は心の内に、生れ出たる身なり」
- 「人間千々よろづのまよひ、みな私よりおこれり、わたくしは我が身を我が物と思ふよりおこれり」
- 「我が身は父母に受け、父母の身は天地に受け、天地は太虚に受けたものなれば、本来我が身は太虚神明の分身変化也」
- 「子の事をば、第二とし、父母の衣服・食物を第一におもひ人」(子のいない夫婦はいても親のいない夫婦はいない)
- 「心は人の身体の中にあると思ふな、心の中にある身体と思え」
- 「自分の体は、父母が完全な形で生んでくれたから、完全な形で、この体は返還しなければならない。これを〝全終〟と謂う」(掻い摘んで言うと、要するに『肉体は、精神の牢獄であるから身体の奴隷になるな』と謂う事である。
幕末、陽明学中興の祖と言えば、佐藤一斎であるが、佐藤の真言で有名な名言は、「一灯を提げて暗夜を行く、暗夜を憂うる勿れ、只一灯を頼め」と謂うのがあるが、其れは外界の事物や出来事の環境に左右される事なく己自身の心の問題、精神を〝止水明鏡〟にして置けば解決する、と謂うのである。又逆に「昼は星は見えないが、夜は見える」と謂う言葉もあるが、一切は己の心(気持ち)次第だと云って良い。
又、佐藤の著した「言志四録」は、幕末志士の間では必読書であったが、特に西郷はこの言志四録から百一条を抄録して座右に置いていた。要するに「この世は苦しい、淋しい、辛い。併し乍ら本当は、苦しいのも、淋しいのも、辛いのも、皆自分であって、世の中ではない。」更に「敬能く妄念を裁断す、昔人云ふ『敬は百蛇に勝つ』と、百蛇の来るには必ず妄念ありて、これが先導を為す。陽明学の克己で一番厳しい文言は「山中の賊を破りは易く、心中の賊を破るは難し」と謂うのがあるのだが、此の心中の賊が先述の妄念だと言って良い。
更に、陽明学を嗜んでいた頭山満の言葉に「如何なる理不尽であろうとも、怒りは噛んで飲み下せ、そうすれば己の力に変る。全ての怒りを己の滋養と心得よ」と。一斎門下は全国で三千人を擁し、吉村秋陽・山田方谷(河井継之助)・佐久間象山(吉田松陰)・池田草庵他、幕末から明治維新にかけての、日本を動かした人々の中に、一斎の学説と繋がりのある人が少なくない。一斎の学問は、生前から〝陽朱陰王〟の謗りを受けているが、元々若い頃から陽明学者として世間に知られた人である。
安政六年九月二十四日、体制内知識人佐藤一斎は死去した。この年に「安政の大獄」があり、橋本佐内(26歳)と頼三樹三郎(34歳)が十月七日に処刑され、十月二十七日に吉田松陰が処刑された 三十歳であった。一斎の如く体制中枢に於て、陽明学を核に活動をした儒学界の泰斗の天寿を全うした死と、国家的危機の突破の為に先駆けの直接行動に出た、若き知識人の処刑による死が、奇しくも時期を同じくした事は、極めて象徴的な出来事である。
0コメント