財政は、「入るを量りて出ずるを制す」(一円でも多く入れて、一円をも出すのを制す)のが基本中の基本であるのだが、現下の日本は、金融緩和策でカネを湯水の如く、輪転機で刷って国内外に供給して〝円安〟を惹起し、混乱を招いている。特に未曾有の財政赤字を抱え乍ら、財務省及び日銀はドル売り・円買い(為替介入)に余念がない。本来ならば米国債を売り飛ばすべきであろう。更に、意味のない外国への供与(バラ撒き)は、国内の貧困層に怒りを買い、円安は物価高(輸入品)に陥り、上級国民と下級国民の貧富の懸隔は著しく、何時、不測の事態が起ってもおかしくはない危険水域に立ち至っている。
因みに、現下の日本銀行が印刷している、一万円の原価は一枚十七円であると謂う。余談だが、一円玉から五百円硬貨を加算すると666円になる。之はユダヤの暗号数であり、ユダヤ財閥の首領はロスチャイルド家であるが、此のロスチャイルドが日本銀行の大株主である事は有名である。原価十七円の一万円札を自由に動かしているとなると、測り知れない利益が生じると謂う事になる。
幕末の山田方谷
此処で、幕末の陽明学者「山田方谷」の藩政改革を覗いて見たいと思う。山田方谷は、文化二年(1805~1877)備中松山(現、岡山県高梁市)の中井町に出生、十四歳の時に母を、十五歳で父を亡くす。生まれ乍らにして聡明、三・四歳より字を書き、漢文を読む。五歳の頃丸川松隠の頃家塾入る。先輩もその学力にタジ~と謂う有様で、周辺の人は少年方谷を神童であると称した。
或る日、丸川松隠に来客があり、少年方谷に「勉強してどうするのか?」と尋ねると、透かさず「治国平天下」(平和に暮らせる国)と答える。(方谷九歳の時)其の後、世間の評判は、藩主板倉勝職公の耳に入り、二人扶持(武士に米で与えた俸給)が与えられ、続いて八人扶持を賜り、側近として取り立てられる。二十五歳の時は、藩校の会頭に抜擢される。
そして、江戸に遊学し、陽明学を佐藤一斎に学び(三十一歳)。佐久間象山等と学問に精進す。(学力、人格を認められ塾長に)遊学は八年に上り学業顕著にして、六十石を賜り学頭に昇進した。(方谷二十九歳の時、王陽明の「伝習録」を読み、陽明学に目覚める)三十二歳の秋、佐藤一斎の塾を卒え帰京、藩校有終館の学頭に就く。
当時、備中藩は借財の為、身動きが出来ない有様。当時藩札を乱発しその結果紙幣の値段が暴落、この時方谷は藩札の大半を焼き捨てゝ新札を発行し、物産を殖やして江戸に転売し、藩邸の費用に充てた。<方谷は、江戸より帰藩して藩政改革に着手、(四十六歳)百万両(現在の百六十億円)の負債を返し十万両を残す。>
勝静(キヨ)公は、方谷に郡宰を兼任させて、民政の改革に実践すること十年。群民は富み、且つ風俗も一新し、旅人が一歩松山藩に入れば、「噫呼この人は松山藩の人々だ」と、一目で分かるようになった、と謂う。此処で勝静・方谷主従の倹約令の要約を記して置く。
勝静・方谷主従の倹約令(要約)
- 衣服は上下とも、綿織物を用い、絹布の使用を禁ず。
- かんざしは、士分の婦人は、銀かんざし一本。以下は、しんちゅうかんざし、櫛などは、木竹に限る。
- 足袋は、九月節句から、翌年四月までに限る。
- 饗宴贈与は、已むを得ざる他は禁ずる。飲食は一汁・一菜に限る。
- 結髪は、男女とも人手を借らず。
- 奉行代官等、些かの貰い品も役席へ持ち出す。
- 巡郷の役人へは、酒一滴も出すには及ばず。
これより先、公は藩士の意識革命をして、恥を勤倹を尊ぶ。文武両道を兼ね備えた、人の養成に心を砕いた。そして藩の改革の事が評判となり、四方より視察に来る者が後を絶たなかった。その中には長州藩の久坂玄瑞も来ている。
間もなく勝静公は老中となり、方谷を江戸に呼ぶ。この時、外夷は我が国を窺い勝手に振舞って、幕政は乱れ、積年の弊害が噴き出していた。方谷は公を補佐し大政革新しようと八方に手を尽くし、松平春嶽に拝謁したり、横井小楠・桂小五郎の諸氏を引見したりした。
王陽明もそうであったが、山田方谷も同じく文武両道の人であった。平時には動時を想定し、動時には平時の如く、心の寧静を保ち、人情事変に対処している。これこそが「陽明学の神髄」である。
方谷は、安政二年(1855)の時点で既に「幕府を衣服に例えると、家康が材料を調達し、秀忠が縫製し、家光が初めて着用した。以後代々襲用したので、吉宗が度々洗濯して、定信が再び洗濯した。併し、以後は汚れと綻びが甚だしく、新調しなければ最早、用に堪えない」と、幕府の崩壊を洞察している。
又、余談ながら「山田方谷は、中江藤樹・熊沢蕃山・佐藤一斎の三人の長所を全て備えて居り、おまけに三人の短所を持たない。彼等三人とは別世界を築いた。日本広しと雖も、これだけ偉大な陽明学者は居るまい」(川田甕江――方谷門下、明治の三大文家)然るに、このような輝かしい活躍の反面、幼少にして両親を亡くし、家庭的には不遇な山田方谷であった。
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