―すめらみこと―

 日本歴史は、絶えず個人主義と統一主義とが、その勢力を張ろうと力めていたのを見る。天照大神と代々の天皇との間には、切っても切れない結合がある、と謂う事実を高調する必要があった。併しその結合は、天照大神が代々天皇の天祖であると云う事実に基づく。統一という事に関する神道流の意味が、日本に於ける国民的統一の進化をして、総ての他の国をば違った進路を採らしめている。神道に於ては、日本及び日本国民は天に於ける原本的・創造的神霊から、引き離された存在ではない。全ては祖孫関係に於て一体である。物質方面と精神的方面とも何等真実な相違点を有せぬ。神道では人が、天上の神と一体となる為に死を待つことを要さない。人類はその個人的・客観的存在に於て常に神霊である。

 この原理は、神道の神髄であり、日本国民の潜在意識的な力である。従って、如何にしてこの神道的統一観を絶えず国民に自覚せしめるかという事は、日本の国家的発展を期する上の重要問題であった。併し、この問題は嵩神天皇の神器奉遷以後、再び強調する事を得た。太古の神道的君主観を奉ずる事によって解決された。神道は、日本を物質的島嶼の一団に過ぎぬとは考えない。日本――神島を広義に解すれば、全宇宙――は主観的創造的神霊の客観的発展である。只その神霊が形対化したのである。同様に日本国民も、一切の創造作用の天上的主観的源泉から顕れきた、創造的神霊である。只その神霊が活ける客観的形態をとったのである。『日本は神国なり』という語は、此の思想を表現したものである。日本人は選民であるという意味ではない。

 神道の神話は、日本歴史であって世界歴史でないから、天上の神霊が、如何に日本民族の間に、創造的に展開したかという事のみを説明する神話の中には、何処にも選民思想はない。譬え比喩的でなく、本当に神道は天上の神霊が主観の世界から、日本及び日本人という客観的形態に展開すると考える。この神道的思想を、現実的な意味に於て理解しない事は、日本人及びその君主の国家主義的進化を誤解する事である。現代の理論が、神道の中に含まれた根本的真理を、洞察できないとすれば、それは未だ現代人が西洋科学の新学説に通暁しないからである。即ち、サー・アーサー・エディングトンは、宇宙の根本的実体に就いて、新しき科学の洞察する所を次の如く述べている。

 「私は、私達の到達したと思う実在の偏見について、出来るだけ判然と述べようと思う。……世界を作り上げている資料は心的なものである。併し乍らその性質は私達の意識中に於ける、感情と全然違わないものと考えて良い」もし、世界を成立せしめている、資料が心的なものだとすれば、それは本来主観的なもので、客観的なものでない。何となれば私自身の心というものが、そのようなものであるから。エディングトンは他の所で、新科学の非宿論的・日器械観的な事を説明している。卽ち所謂、心的な資料なるものは、私達自身の心と同様に創造的でもあり、主観的でもある。従って、心的資料なるものは全能者の命令によってゞなく、自己の自己創造的動力によって、客観的宇宙及び生命に、発現進化したものでなければならない。

 即ち、心的資料は自己発展の結果として、日本――日本以外の物質的宇宙――及び日本人――日本人以外の一切国民及び各種の形態に於ける全存在――になったのである。古い~大昔の日本に於て、神道は現代科学の説く心的資料なるものを、人格として神と名付け、その神が創造的膨張に依って、宇宙になったと信じた。今や現代科学は神道に追い付こうとしている。何となれば科学が仮にも『心』という語を用いるのは、必然的に人格主義の採用を意味するからである。従って日本及び日本人を神、即ち、自己創造神霊の客観化を見る神道思想は、現代科学に対して自己弁護する必要はない。現代懐疑思想に対しては、殊にその必要がない。

 日本人は、客観的自己創造を為す所の、且つ個性を具えている所の神だと、神道が理解している事は極めて明瞭である。神道の古語では、男子を「ひこ」と云い、女子を「ひめ」と云う。ひこは日子を意味し、ひめは日女を意味する。天照大神は、天の統治者たる日神であり、日子・日女たる男女は斯くして神道に於ては『天孫民族』と称えられる。依て、かみとみことゝの間には真の区別はない。従って神道に於ては、人とかみとは同じ意味を有する。みことゝしての人は自己創造的、自己発展的で、天つ神の器械的な所産でなく、神自身の客観的発現である。故に「みことは、人たる否とを問わず、むすびを具現するものを意味する。……むすびとは創造、発展及び支持の源泉である。」

 二人の本源的な造化神を、神道神話でむすびと呼んでいるが、それは、主観の世界から客観への世界へと、最初の進出を遂げる創造的動力を、人格的に表現したものである。みこと或は、神たる日本人の根本的且つ、神道的な意味を捕捉しようと思えば、みことの中にむすびが具体化されている事を、理解することが大切である。斯かる故に神道の上からも、上代日本語及び、現代日本語の上からも、日本人は個々別々に皆地上に於ける神、卽ち創造的神霊であると謂う事には何ら疑問もない。この原始的な思想を無視する事は、神道を無視する事である。日本人は、創造的神霊の個人的表現である個人化されたみことである。        「全ての日本人は、創造的神霊の個人的表現である。個人化されたみことである」

 心理学に依れば、全体は部分の総和以上のものである。全体というものは、全ての個人よりも優越なものである。何となれば統一された全体と云うものは、全部分の単なる総和よりも、優れた新情勢を造るものだからである。君主に対してすめらみことゝいう称号を考え出した所から見れば、やっと現代心理学が理解せんとしている実在観を、既に原子的・潜在意義的精神が持っていたことが、神道によって明らかにされない。すめらみことは、日本に於ける地上最初の君主、神武天皇に奉られた称号であった。それから幾世紀もの後、恐らく千年以上もの後、日本人は中国の表意文字を採用した。以来日本人はその君主をテンノウと呼んで来た。天来の自己創造者と云う意味である。併し、君主の称号に対する日本流の発音は、依然としてすめらみことである。併し、てんのうと云う語はない。

 すめらみことゝ云う、古神道の君主観を言い現わしている。君主はみことたる日本国民と、日本国の住民たる物質的資格に於てのみでなく、更に天と神霊的関係に於て、全体として統一するという事が、すめらみことゝ云う事に含まれた意味である。すめらみことの天理たる天照大神は物質性以上のものである。最初の起源に遡るというと、物資性というものは消失する。何となれば物質というものは、自己自身の本源的実在性を持っていないからである。物質宇宙の背後には、それの自己創造的な姿を与えている。電子というものは、何等の物質性を有せざるにも拘らず、現代科学は、物資的事物に適用される言葉で電子を論ずるが、それと同じく神道は、高天原・天照大神、及びその他の天津神を物資的な意味に説くけれども、本当の意味は物質的ではない。如何なる神社に於ても、天照大神の人間的表現は何等の形に於ても見当たらない。非物質性を暗示する為に、全然隠蔽する事が、全ての神社に於ける神の表現に於て最も大切である。

 神道が単純に、高天原という物質的な場所に於て、物質的な神々が、日本民族を生んだという、伝説を造ったと謂う事であれば、神道の精神的感化は、今日まで存続する事を得なかった。自己創造的な神霊は、高天原と呼ばれる所の、宇宙の主観的本源から客観世界に発現すると謂う事を、神道の原始的直観が悟ったればこそ、神道の精神的価値は不朽性を存する日本の君主は、その君位を継ぐと共にすめらみことゝなる。皇位についても物質的な祖孫関係に於ては、何等の変化も起こらぬけれど、天皇は日本人にとっては、日本の神霊的統一者たる天照大神の非物質的子孫となる。すめらみことの地上の先祖は、天上の統一的精神と云う神道思想に結び付くのであるが、その意味は万物包容の神道的一体性というものは、太初以来またがって、破壊されると云う事がないと謂う事である。

 日本人は、すめらみことによる精神統一を、本当の事実と感ずる。併し、その感動は国家的統一の上にも、国民の満足の上にも、永久の利益を与える。日本人はすめらみことにより、個性を全体的統一の中に、没する事を潜在意識的に理解し、最も意識的解剖を必要とせぬ。如何にしてすめらみことに関する、この種の神道思想の依って、かくの如き結果が日本に於て招来されることかという事は、如何にして非物質的な電子が、物質的なものになるかを、科学が説明し得る以上に自覚的に説明されない。併し、確かにこの如き結果は招来される。日本人に取りては、すめらみことは、日本全土を通じてその国民的な且つ、精神的な且つ、精神的な力を統一する、集中する方である。

 日本に於ては、皇位の継承者がすめらみことになると、その天皇の地上的な肉体や個人的且つ、私的な人格に関係なく、全体として統一し給う神たる、その天皇に対して、日本国民は潜在意識的に感応する。天皇は、統一と結合との動力の中心人格となり、日本国民を神道的精神的に結合する。併し、この種の結合は、単なる物質的統一よりも遥かに有力である。すめらみことの統一力は、神道精神に於けるこの種の要素が、それを保持する国民の間に長続きする限り、存続するだろう。但し、すめらみことの先祖は天上の神であったという事で、長い間国民は感応して来たものであるけれども、現代人の論理的自覚は如何に、これを説明すべきかに惑うている。

 全体として、統一する神たるすめらみことは、天照大神を崇敬するのみならず、神霊の個人化された、主観的人格化の全てをも、同様に崇敬する。何となればすめらみことは、自己の裡に有する神霊的統一力のみならず、日本に於ける神霊の個性的表現全部を代表するからである。併し、後者が結合して一体なるのは、すめらみことの力に依るのである。此の思想は、神道の伝統に於て極めて古いものである。千二百年前古語拾遺は、次の如く記している。「祖を尊び宗を敬ふ云ふことは、礼教の光とする所である。故に畏くも我が御歴代の天皇は、その御位を皇祖皇宗より承けさせられて御登極遊ばされる時は、遍く皇宗の神霊及び天地地祇を御祭遊ばされるのである」

 卽ち、各人は、天上の御霊界に於ける個別的な本源に溯って、その先祖を個人的行為にして崇敬する。身自ら天上に於ける統一神の神霊的子孫たるすめらみことは、全神霊の統一者たる資格をもって一切の神霊を崇敬する。かくして個性と統一とが、保持され、公衆道徳が保たれる。神道に於けるこの種の意義は、神が何等か、実際的方法で実現される為には、先ず、潜在意識的に感得されなければならない。非常に潜在意識的な日本人は、自覚的な試験を経ない内面的知識にやって、この様な思想を墨守する事を得た。併し、時々外国思想が、すめらみことに関する如上の神道原理の中へ這入り込み、全体として統一する神と謂う、純然たる日本的な基礎を変更しようと努めた。多数の人々は、神道的独裁主義を要求する。嵩神天皇は、神道の中にこの種の意義を含ませる事を拒絶された。

 神道は、宗教的礼拝の対象として、天上の全能者と云う考えを建てないで、その天津神をば神的先祖だと見る。従ってすめらみことに対して、示される崇敬を宗教的礼拝の行為だと解釈するのは、神道ではない。神道に於けるすめらみこと思想というものは、日本人種の原始心が実在に対して持った、潜在的意識にその起源を有するもので、純然たる日本流の思想である。すめらみことから、全体として統一する神と謂う意味を奪い、それに代うるに遠く礼拝者から離れて存在する、地上の宗教的全能の思想を以て、する事は神道の許さゞるところである。仮にも、この種の唯物的意義を用いて本源的な、精神的な思想を変更するいう事であれば、神道はその原始的意義を失うだろう。

 人類が意識的に展開した天上及び、地上の全能心と云う思想とは、無限の種類がある。併し乍ら、原始時代から現代まで存続したすめらみこと思想(自己創造の天上の本源がら、みことゝして発現し、すめらみことに依って統一されるという、神道の直観)と云うのは、唯一つしかない。すめらみことの有するこの独特な性質は、日本精神の一部である。それを、外国の全能心の思想に調和するように、変形する事は物質的な事物を西洋の雛形に似せて、日本で造るのと同じように、神道を外国の信仰にする事になるだろう。国と天との帰一を国民に対して、人物化して呉れているすめらみことによって、神霊的起源を有する国民は、地上生活に於ける相互間の統一を得るという、純然たる神道的意義に於て、すめらみことゝ云う称号を用いるならば、その称号は如何なる地上の統治者にとっても、最も精神的な結合力を有する称号である。

 此の神道思想の生命は、神霊というものを、個別的自己創造をしながらも、常に統一されていると見る所にある。如何なる宗教的意識に於ても、天上或は地上における全能心という考えは、何等かの形に於て人と神を引き離すものである。併し、すめらみことは全体として統一する事を意味する。卽ち、日本国民はすめらみことに依って、精神的にも物質的にも統一されていると謂う事実は、国民として離ればなれの個人の姿に於て、見る事得ざる感性の理想を、統一された全体に於て直覚せしめられる。物質性というものは心霊性の一面であり、物質と精神(神霊)とは不可分離的に結合されていると見做し、神道原理・神道に於ては個性というものも、同時に実在である。何となれば、客観的宇宙に進出する神霊の物質的表現としての統一的全体は、個々人によって形成されるからである。

 神道に従えば、日本人は個人的に皆みことであり、すめらみことによってその統一を実現するのである。然るに神卽ち、創造的神霊は、天上の本源から個々人の人格を通じて、発現するものだという神道の神観を理解しない人がある。神性ということを全然すめらみことに限り、其々の境遇に於て、神霊の発展を翼賛するというみことゝしての責任を避ける人があるかも知れない。此の思想は神道ではなく、外国の神観が日本に普及した結果である。神道は統一する全体としてのすめらみことゝを個性上のものとして崇めるけれども、神道は更に各個人がむすび卽ち、自己創造力を体現する地上の神たる、みことゝしての精神的自信を保持せん事を要求する。神道に於ては、原始的真理は西洋とは違った方向、卽ち、潜在的直観とより多く、一致する方向を採った。卽ち神道では全人民を個別的に見、すめらみことを国民統一の精神的中心だと見、統治者人民により、不可分離的精神的家族を組織するのである。

 日本の於いて、すめらみことは、全て同様に天孫たる家族のみよりなる、神霊的家庭の家長だという意味に於て、国民の首長である。すめらみことの意志は、無条件の服従を要求する。併し乍ら、人民とすめらみことの一体であるから、人民に対する独裁的な政治的統御を意味する。西流々の『親権』説というものは、神道の中には全然あり得ない。すめらみことの『親権』は、全ての者が一体である。家庭の首長としての父権というものと根本的には、相違していない。従って日本に於ては、国家発展史上における、創業時代が終わった後には、すめらみことは政治上の実権を、自己の掌中に握った事は殆んどない。その例は天智天皇に依て示された。すなわち天皇は、第七世紀に於ける大化の大革新に際しては、中大兄皇子として、これが主要創始者の一人となったのである。

 661年に皇位を継承したけれども、其の後七年を経るまでは、すめらみことにならなかった。千年間も増長する侭に放任してあった弊風を、根絶するという仕事を引き受けた。彼は直接に皇位を失敗の危険に関連せしめる事を恐れた。然し乍ら668年、彼の改革は確実に信頼される程に、同化し切った事を判断した。彼は正式に皇位に登った。すめらみことゝ日本国民とは、この意味に於て、協力して国家の進歩を図る。明治天皇は能くこの事実を理解したが故に、国民が中世主義から現代主義へ進出した、未曽有に困難な時代を通じて、最もよく日本の統一を保ち得た。明治天皇は1889年憲法発布の際の詔勅に於て、日本の基礎を据え且つ、日本を進展せしめる上に演じた国民の役割を重視した。

 我カ祖我カ宗ハ我カ臣民祖先ノ協力輔翼二倚リ我カ帝国ヲ肇造シ以テ無窺二垂レタリ此レ我カ神聖ナル祖宗ノ威徳ト並二臣民ノ忠実勇武二シテ国ヲ愛シ公二殉ヒ以テ、此ノ光輝アル国史ノ跡ヲ胎シタルナリ、朕我カ親民ハチ祖宗ノ忠良ナル親民ノ子孫ナルヲ回想シ其ノ朕カ意ヲ奉体シ朕カ事ヲ奨順シ相与二和衷協同シ此ノ負担ヲ分カツ二堪フルコトヲ疑ハサルナリ

 この詔勅には、神道精神の響きがある。日本の発展は、すめらみことの独占にかゝる、如何なる神力にも依るものでなく、君主と国民とが『相互に和支協同』せるに依るものだという事を、この詔勅は認めている。将軍制度を転覆して、憲法政治を日本に与える事に重大な役割を演じた神道というものを、明治天皇は斯く解釈された。すめらみことの責任だとも、又すめらみことのみの功績だとも、又すめらみことの功績だとも、明治天皇は要求されなかった。明治天皇の御製の一にいわく、

うちむかふたびに心みがけをや 鏡は神のつくりそめけず

 即ち、鏡の起源は天にあり、人をしてその心霊的自我を直視せしめよってもって、進歩のための努力を促す為に作られたものである。神道に於ける心霊的象徴たる鏡は斯くして全人民に取りては、自己発展の為の平民的達成の源泉となる人々は、鏡に於て自己を見る。然し自己を見る事に於て、神卽ち自己の人格をも見る。二千年前、嵩神天皇が神鏡を宮中より奉遷したのも、同一根本思想によるものと思う。

 嵩神天皇が神鏡が天皇のみ地上に於ける、神たる権利を与えると考える事を欲しなかった。天皇は寧ろ、神霊の普遍性を明らかにする事を欲し、且つ神の平民化によって人民に自己発展を促がす事を欲した。明治天皇の御製を拝読すれば、そこに嵩神天皇の感化が幾世紀もの 年代を通じて存続し、国民の自己奮闘力及び、自己発展力を潜在意識に保持して来事が伺われる。

 嵩神天皇は、地上に於ける全能神という、間違った思想をすめらみことから取り去り、自己信頼を創造的活動との必要を強調した。斯くして、国民の自己発展と共同的努力とを紡げることなくして、国民の心霊的統一を成就するという、神道的意義が到達する道が、すめらみことの為に開かれた。併しすめらみことの有する如上の統一力は、明治天皇により、非常なる成功裡に現代事情にぶつかる事を得た。

 即ちその結果、日本は一代にして中世期から現世紀へ追い出し乍らも、少しも国家組織に動揺を齎さなかった。今や神道の本能力は、過去の古代精神と現代の新精神をすめらみことによって、結び付けている。併し、すめらみことに関する如上の神道原理を奉ずる限り、日本の創造的精神は、将来の進展の要求すべき、如何なる事態の変化にも適応する事を得可く、而もそれによって、神霊の普遍性に関する太古的根本的基礎は、決して崩壊されないのである。

(43 43' 23)

國乃礎 鹿児島県総連合会

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